小生の気まぐれにより、ヒュームのお話は延期します。
人口が増加すると食料が不足するという問題が生じます。しかしそれだけではありません。過去と現在、田舎と大都会などを比較すると、人口が過剰の地域の人々から人間愛や人間性と呼ばれているものが喪失することが明らかとなりました。
何故なのでしょうか。一つには経済学でも言われている、価値、重要性の問題があります。「需要と供給」の関係があるように、必要以上に増えすぎた「もの」はその価値が減少してゆきます。価値とは「もの」そのものの性質ではありません。それは「もの」を評価する人の心の中に存在するものです。ある人が10人について考えた時と、ある人が1000人について考えた時では、その1人当たりに費や� �れる時間も重さも100倍違います。
オーストリアのコンラート・ローレンツ(1903-1989年)は人間性の喪失について動物行動学的に考察しました。人間は人口が過剰になると、温かいまごころや優しさという人間性を自分の家族や親しい友人に集中させます。「すべての人を愛すべきであるという要求がいかに正しく倫理的であっても、私たちはすべての人を愛するようには生まれついていない」のです。そしてそれからまた別の問題が発生しますが、彼はそれを8つの過程にまとめました。『文明化した人間の八つの大罪』より以下に一部を引用してみます。
第一に、地上の人口過剰である。多すぎる社会的な接触のために私たちは誰もが根本的に「非人間的な」方法で自らを守らざるをえない。またそれに加え� ��、多くの個人がせまい空間にすしづめにされていることが、直接に攻撃性を解発するように作用している。
第二は、自然の生活空間の荒廃である。私たちの住んでいる外部環境が破壊されているだけではない。人間自身の内部でも、人間をとりまく創造物の美しさや偉大さをおそれる気持が破壊されている。
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第三は、人間どうしの競争である。競争の結果人間の破滅のための技術の発達はますますはやまり、人間は真に価値のあるあらゆるものが見えなくなり、反省というまことに人間らしい行為に専念する時間を奪われている。
第四は、虚弱化による豊かな感性や情熱の萎縮である。工学や薬学の進歩のために、ごくわずかな不快刺激にも耐えられなくなっている。そのために障害を克服するときのきびしい苦労をつうじてしか得られない喜びを感じる人間の能力は低下している。悲しみと喜びの対照という自然の意志によるうねりは、いうにいわれぬ倦怠の知らぬ間のひろがりのうちにきえてしまう。
第五は、遺伝的な衰弱である。社会が大きくなるにつ れて社会的な行動規範はますます必要になるのに、近代文明の内部には ― 「生まれもった正義感」と、うけつがれてきた多くの法の伝統を除けば ― 社会的な行動規範の維持や発達に対して淘汰を加える要因はなにひとつ存在しない。「造反している」現代の若者の大部分を社会の寄生者たらしめている多くの幼児化現象がおそらく遺伝的にきめられているということも例外ではない。
六番目は、伝統の崩壊である。伝統の崩壊は、若い世代がもはや古い文化的伝統とうまく和解できなくなり、ましてやそれと一体化することができなくなる臨界点に達することによってひきおこされている。そこで若者たちは古い世代を「異教徒集団」のように扱い、それに国家的憎悪をもってたちむかう。このように一体化が乱れる原因は、なによりも親と子の間の接触が欠けているところにある。病いはすでに乳幼児の頃にはらまれているのである。
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七番目は、人類の教化されやすさの増加である。唯一の文化集団に集中している人間の数の増加は、世論に千渉する技術の完成と結びついて、人類史のいかなる時代にも見られなかった世界観の画一化をひきおこす。さらにかたく信じられている教義の暗示的な作用が、その信奉者の数とともにおそらくは幾可級数的に増加している。今日ですら、マスメディアの影響、たとえばテレビの影響を意識的に避ける個人は、しばしば病的であるとみなされる。非個体化効果は大衆を操作しようとするあらゆる人々に歓迎されている。世論調査や宣伝技術、それに巧みに操縦された流行は、鉄のカーテンのこちら側では大企業、むこう側では� �僚が同じように大衆を支配するのを助けている。
八番目に、核兵器をもった人類の軍拡が、人類に危機をひきおこしている。この危機は前に述べた七つの現象がひきおこす危険にくらべて避けやすいものである。
えせ民主主義的な教義は七番目までの人間性喪失の過程を促進している。この教義は人間の社会的な行動や道徳的な行為が系統発生で進化した神経系や感覚器の体制によってきまるのではなくて、もっぱら人間の個体発生の途中でそのときそのときの文化的環境をつうじてえられた「条件づけ」によって左右されるというものである。
(日高敏隆・大羽更明 訳)
このように人口の増加による人間性の喪失の過程が述べられています。しかしそれだけが原因ではないようです。近現代のそれは産業革命の労働の分業化にまでさかのぼります。つまり手工業の親方は機械化により工場の労働者となり、独立の商人は大企業の使用人になるというように、人間から自由や思考する必要性が失われてきました。
さらに過労が加わります。人々は人間としてではなく労役者として生きるようになり、精神のエネルギーは教養や哲学に使われず、娯楽に消費されるようになりました。そして二つの世界大戦はそんな時代の流れの中で起きました。
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ちなみに現在の日本の医療界もその流れに乗っています。内科や眼科や耳鼻科など専門化が進んでいます。伝統医学も鍼、灸、漢方薬などを取り扱えるためにはそれぞれ別の国家資格が必要です。そして専門化、分業化が進み、ガイドラインやマニュアルに従って治療することが当たり前になってくると、病気を治してもらうことができず、また病院をたらい回しにされてしまうような医療難民が生まれました。
また最近、クレーマーやモンスターペイシェント、モンスターペアレントなどという理不尽な要求をしたり、相手を非人間的にあつかう人々が問題になってきています。現在の法律や社会、企業のルールはまだ個人の人 間性を維持するようにはできていないようです。
例えばクレームが発生した時は、クレームを受けた側が謝罪するとか、言い訳はしないとか色々とルールがあるようです。大都市の店員さんは、たとえどんなに非人間的に扱われても、(雇用や企業利益のため、丁寧に、機械的に)クレーマーに生活に必要な食料や物資を売ってくれます。これは人間性を保持するための社会的な淘汰圧がなくなってきていることを意味しています。
アルバート・シュヴァイツァー(1875-1965年)(註1)も現代人の人間性の喪失に対して心を痛めていました。
「人間の人間に対する正常な態度というものは、我々にとって困難になっている。我々の生活方法の焦躁によって、増大した交通、多数者との狭い地域内� ��の共働や共棲によって、我々は常住様々な様式で見知らぬ人対見知らぬ人として邂逅する。社会関係が、我々をして相互に人間対人間として振舞うことを許さないのだ。普通の人間として行為するに当たって我々に加えられている制限というものは、我々がもはやそれに馴れて、我々の非人格的態度をもはや何ら不自然なものとしては感じない程にまで、それほど一般的であり日常的である…」(アルバート・シュヴァイツァー『文化の衰頽と再建』山室静訳)
ということを20世紀の初頭から感じていました。そして文化を再建するため、人間性を回復するためには「生命への畏敬の世界観」を持つことが必要であると主張しました。
古代中国、戦国時代にも似たような状況がありました。中国は城郭都市国家であり、一国内の居住面積が限られていたので、一国の人口はすぐに過剰な状態になります。例えば斉の臨菑の都では「車のこしきがぶつかりあい、歩く人は肩をすりあって、衽(オクミ)はつらねては帷のごとく、袂をふりあげれば幕となり、汗をふるおうとすれば雨となるほどの賑やかさ」でした。(『史記列伝』蘇秦列伝第九より)
きっと老子は、そんな人口の過密な状態で戦争ばかりやっている国々を� ��てきたので、「小国寡民」(八十章)を理想の社会と考えたのでしょう。「大道廃れて仁義あり、知恵出でて大偽有り」(十八章)ともあるように、今と同じ問題が存在したようですね。
(註1)アルバート・シュヴァイツァー(1875-1965年): ドイツとフランスの国境紛争地域、アルザスの生まれ、医者、オルガン奏者、音楽学者、神学者、哲学者。アフリカのランバレネで人道的な医療活動に一生をささげました。
(ムガク)
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